2022年9月8日

内田百閒の講演録のひとつに「作文管見」というのがあり、そのなかで「縁の下に狐がいた、と随筆に書いた時、本当にいたのかと聞かれたものだが、本当にいたわけではなくても、その時の感じを表せていたらそれでいい」というようなことが言われいる。物事のディテールがすぐにぼんやりしてしまう私は、これを読んでかなり感銘を受けた。以降日記を書くときはいつもこのことが念頭にある。

しかし厄介なのは、その「感じ」を知っているのは私だけであるということだ。登場人物を足したり、引いたり、地名を変えたり、時間をずらしたり、文章の上ではいくらでも可能だ。まるきりの嘘を書き綴って、「しかし私にとってはこういう感じでした」と言い張ってしまえば、簡単にそうだったことになってしまう。しかも、一度言葉になってしまえば、時間が経つにつれ実際の過去の経験より強い影響力を持ちうる。誠実に「感じ」を書き表すのは、普通にあったことを事細かに書くより難しいかも。

こういうことがわかっていない私は、ずんずん、胸を張って嘘をつき続ける。嘘と言うにはあまりにも些細な差異であるが、些細であるがために、後から本当にそんなだったような気がしてくる。書いている時の違和感はあっという間に薄れて、書き終える頃には書いたことのほうが事実に成り代わる。そういう性質はどんどん話し言葉にも影響してきている気がして、怖くなった。

最近はまとまった文章を書く気になれない。単に面倒くさいのもあるけれど。べつに、誇張や脚色は今に始まったことではなくて、上記のようなことを考え始めたためにやっと意識にのぼったのである。とにかく、いまは何だか、ここまでスラスラとスマホの画面に打ち込めてしまう自分のせっかちさ、軽薄さが心底嫌だ。月並みだけど、言葉をもっと慎重に使いたい。鍛えていかないといけない。サボるな。

とはいえ会話コミュニケーションで、いつでも正確に、完璧に、などと考え始めたら何も話せなくなってしまう。昨日はボランティア先の活動振り返りの時間に、思ってないことまで言ってしまった。思ってないことだとしても、「それらしいことを言う」というパフォーマンスが、あの場では必要だと思ったからだ。みんなとは違う分析視点を持ち込むこと自体に意味があると思った。ベテランのスタッフには的外れであることが見破られていら気がして居たたまれなかった。しかし、昨日はあれでよかった。こちらでは実態を理想に近づけていくようなやり方が必要かもしれない。ここまでの何ともいえない文章は、なるべく思った通りを書けた。

2022年8月26日

洗濯機を回すと、3回に1回はそのまま忘れて、翌日もう一度回すことになる。毎日やらねばならないことはそれほど多くない。朝起きること、食事をとること、苗木に水をやること、職場に行くこと、職場から帰ること。着る服がなくなると困るから洗濯をして、汚いままの皿は使えないから洗って乾かす。できものが増えると痛くて嫌だから顔を洗い、ついでに歯を磨く。風呂にも入る。大体こんなところか。今も洗濯槽のなかで湿った布が堆積している、その重みが自分の身体に作用して、ベッドから起き上がれない。

親しい人と会って一緒に飯を食うことでなんとか生きながらえているのに、予定が立て込むと死にそうになり、この矛盾を誰かどうにかしてくれないか。このまま身なりも整えないで24歳に押し出されていくのか。十分心の準備をして、ざぶんと飛び込むようなことをしたい。べつに誕生日でなくても。あ、そう、最近できた友人に「パニックの日、で覚えやすいですよね」と言われて目から鱗であった。23年同じ誕生日を迎えてきたが、初めて気づいた語呂合わせだった。焼き肉の日、よりずっとしっくり来た。

2022年8月13日

以前友人から深夜に呼び出しをくらい、深夜2時から大文字山に登るはめになった時に、テンションが上がって梨君たまこと牙のゆくえばりにワンワン遠吠えしたら、すごく引かれたのを思い出した。遠吠えにもTPOがある。登る前、私がサンダルで来ているのをみてため息をつき、友達がコンビニで靴下を買ってきてくれて、嬉しかった。

2022年8月12日

朝と昼と、それぞれに大事な友人と違う温度のコーヒーを飲んだため、3時間前に目が覚めてから全然寝付けない。やろうと思っていたことはあるが予定はないので、不安もない。切ない印象だけが心を占めている。

写真もろくに撮らないのだから、一緒に過ごす間に相手のこともっとまじまじ見ていればよかったと思う。後悔するだけして、次にそうするかといえば絶対しないのだけれど。彼らはあまりにも正しく、誠実で、私は内側に溜め込むばかりで、そのなかから何を返せば喜んでもらえるのかわからないので、鏡の身振りできっちり同じだけ返して、オリジナルなものは何一つ渡せていない。わからなくて、などと殊勝なことを言っているが、じつは自尊心が傷つくのが怖いだけだ。渡したものに相当するものが返ってこなかったら嫌だとか、的外れと思われたら恥ずかしいとか、そういう卑小な話だ。いつまで経っても卑しい自分だ。

自分だけの力で他者との関係をどうこうできると思いすぎているのかもしれない、と思った。何が起こるかわからなくても、わからないまま、ボールを投げ(返し)てみることが今は必要かもしれない。くわえて、時間がかかっても、可能な限り、望みを言語化すること。

2022年8月9日

ソファに深く座りながら、何事もバランスですよねーと言ってみたら何故かえらく喜ばれ、社長が二つ目の阿闍梨餅をくれた。口では「やったー」と言いながら、こんなことなら10分早く家を出たり、セブンイレブンで適当なパンを選んだり、駐輪場で急いで口に詰め込んだりすることなかったな、とケチくさいことを考えていた。もらった阿闍梨餅はその場で食べた。宵越しの飯はもたない主義である。

明日は久しく会っていない友人が泊まりにくるので、部屋に散らばった紙類を隅っこに寄せたり、鏡を拭いたりした。会社帰りに直接待ち合わせ場所に向かい、飯を食ってから帰るので、もう片付けるタイミングがない。最悪先に住所だけ伝えておいて、店から出たら駆け出してまけばいいか、と考えている。

今日は中井久夫が亡くなったニュースと、三宅一生が亡くなったニュースをみた。

2022年8月2日

遠くに住んでいる友達から盆にそっち行くよ、と連絡があった。駐輪場で携帯を見て、ポケットにしまい、自転車にまたがる。住んでるマンションの前を素通りして、20分くらい走りつづけたら、以前何度か訪れたことのある喫茶店にたどり着いた。窓際の席に座り、チキンのトーストサンドとオレンジジュースを頼んで、それからやっと返信した。

夜遅くまでやっていて喫煙可能なその店は、ほかの喫茶店と少し客層が違うように思う。仕事終わりらしいスーツ姿の男性が数名、私よりも年下に見える地元育ちの青年たち、本を読んでいる老人は何時間そこに座っているのか、あるいは何年まえから。人の出入りは絶えないわりに、店内はわりに静かで、15分に一回くらい誰かがそっと席を立って、入り口近くの自販機で煙草を買う。煙草を吸えない私は黙々とサンドイッチを食べる。煙も一緒に吸い込みながら。だんだん背中が暗くなってきて、近くのガソリンスタンドがここぞとばかりに光り始める。

帰りはもう待つばかりだから、行きよりずっとのろのろ走った。細い路地に目線だけで進入した先に細い三日月が引っかかっていて、それすら何かの符牒になる。さっき通り過ぎたばかりの自分の家の前まで辿り着き、車も人もほとんど通らない道で、ゆっくり八の字を描くように漕いだ。

その後二つ三つメッセージをやりとりして、その返事がまだ来ないので、今日はずっとやきもきしていた。

 

2022年7月31日

昨日は副反応でぼーっとしながら、フジロックの配信を見たりアイスを食べたりして無為に過ごした。夜に妹に電話をかけた。吐瀉物と排泄物のマジでどうでもいい話をされてゲボ吐くほど笑ってしまった。もはや彼女の語り口自体がツボになっている。くだらない話を面白く語れる人は偉い。

近頃とみに依存的なので、SNSを見る頻度を減らそうと思った。こうした実践はわかりやすい即効性がないので続きにくい。実際これまでに何度も失敗している。しかしまあ禁煙のつもりで苦を負おうとおもう。