2022年9月25日

連休の終焉が受け入れられず、カレンダーアプリを立ち上げて次の祝日を調べる。直近だと10月10日のスポーツの日である。1964年の東京オリンピック開会式が執り行われた日である。べつに由来をありがたがるつもりはないが、それはそうと祝日という言葉が素敵だし、その上仕事が休みになるのだから最高。去年一昨年は定年退職後みたいな生活を送っていたのでこういうありがたみはなかった。もう見えない敵によってジリジリ壁際に追い詰められていくような感覚もない。去年はそういえば腹のあたりに慢性的な強張りがあって念の為に消化器内科を受診し胃カメラまで飲んだ。結局ぜんぜん正常で、「まあちょっぴり炎症がある…かもね」とオマケみたいな診断結果がくだった。余韻みたいな強張りは残っているが前より全然気にならない。数年働いたらまた別の焦りも生じるのだろうが、だからこそ今は、こういう平凡な呑気さを満喫したい気がする。休みが終わるのが寂しくて、昨日買ったラケットとシャトルでリフティングして遊んだ。それと長年連れ添った右太腿のイボが知らぬ間に取れている。

2022年9月24日

木曜日の夜から妹が家に泊まりに来ていた。一泊だけの予定だったが、昨日思ったより帰宅が遅くなって、昨日の晩も泊まっていくことになり、結局今日の20時過ぎに、私の漫画を携えて帰っていった(『A子さんの恋人』3〜6巻。うちに来る人間は必ず興味をもつのか?)。先週末も含め、今度のシルバーウィークは時間にも金にも糸目をつけずに遊び暮らして、どんな不安も入り込む余地がなかったほどだ。だらしのなさも突き抜けてみればいっそ清々しい。楽しいことをまだいくらでも思いつけそうな気がする。

昨日はてんやものの寿司をたらふく食べたうえで海遊館に行って(海遊館では一切寿司のことを思い出さなかった)、今日なんか夜の公園でバドミントンをした。100均でラケットと羽根のセットを買い、夕方になる前に一度鴨川沿いで試してみたのだが、南に向かって吹く風が強いのとどっちも絶望的に下手くそなのとで、一度もラリーが続かなかった。外でバドミントンをやることは、かねてから聞いていた妹の宿願で、道具を買い場所を見つけるところまであまりに上手くいきすぎるので二人して怖がっていたのだが、双方がサーブを打ってはあらぬ方向に飛んでいく羽根を追いかけ、疲弊し、草っ原の上に座って川を見つめた。我々はこういう時いつも、アニメのピーピングライフみたいな、脱力した結果になるのだねと喋った。バドミントンは体育館でやるべきだという結論に至った。

フードコートでたらふく食べて、ちょっとばかし買い物して、それから帰宅の途についた。辺りは既にまるきり夜で、大通りから一本引っ込んだ道はすごく静かで、気温がちょうどいいからか開いている窓が多く、いろんな部屋を少しずつ覗けた。通りかかった公園が気になり、とりあえず足を踏み入れた。街灯の下がわりに明るいこと、ほかに人がいないことを確認し、「ちょっとやってみる?」と私が言ったら、「ちょっとやる?」と妹が言った。下手くそは依然下手くそであったが、今度は3回くらいラリーが続いた。昼間には突然北大路通りの真ん中に立ち尽くして「もう歩きたくない」と言い出したやつが全然やめようとせず、ゼエゼエ息を切らしている私に次々サーブを打ってきやがるので、変な人だなあと息を切らしながら思った。

とても大袈裟なのは分かっているが、我々にとってこういうことは、わりと結構、冒険で、誰の目を気にすることもなく、嫌な思いをすることもなく、ただこの休日を楽しく終われたというそれだけが、私にはまだ少し不思議で、とても嬉しい。大人になれてよかった。

三連休はまだ一日残されているが、どうやって過ごそう。

2022年9月16日

日記とは、思いついた先から書き出すことでのたうつ心のかたちをトレースする、した気になる。体裁を整えたら案外見られるようになり、満足する。自尊心を少し取り戻す。自分のことを自分の言葉でなんどもなんども語り直すことが大事だ。あるだけ時間を使って、納得いくまで書き換える。面倒くささをいい加減引き受けろ。

もしくは、後から読み返す自分のために。下りのエレベーターの前で立ち尽くしていた小さい子どもの風景や、自転車で八の字書いて走った喜びなど、覚えている、ということを思い出すため。記憶の外在化というと語弊がある。経験したものごとをそのまま再現できるほど、私の言葉は鍛え抜かれていない。トリガー。前に歩いた道をもう一度歩くのと同じだ。それに、記憶と結びつく具体的な日時がはっきり分かることは嬉しい。具体的であればあるほど頼もしい感じがする。

さらには、存在証明。んな大袈裟な!しかし、わざわざ読み返さずとも書き残したテキストをざーっと並べてみるだけで、重たくて仕方のない今をこれまでも生き延びてきたことを、嫌でも納得させられる。特に私は過去の自分を荒っぽく扱ってしまいがちなので。

後はまあ、ボケ防止。それに、仮にも他人の文章をいじくることを生業にしている人間が、ろくに文章も書けないとなると、ちょっとよくない気がする。実際読む方にかなり難が出ていて(理解はできるが味が前より薄いというか、遠い感じ。甘い味を知っているから、かろうじて甘いと判断できる感じ)、読書をやめるわけじゃないけど、怖く、これが感性の衰えなのか学習能力の低下なのか情報過多で入る余地がないのかよくわからん。だからせめて書く。それで読む。自分の書いたものはまだ味がする。

今日は仕事の休憩時間に友達と公園でパンを食べた。牛乳のストローにハエが近寄ってきたりした。去り際「見せたいものがある」と宣言したかと思えば突然石のベンチの上に両手をつき足を地面から離してさながらシャチホコみたいなポーズをとり始めたので私は「怖い!」と叫び、辺りの空気が揺れ、近くを走る叡電の線路が震え、震えが車体に伝い、冷房にあたって気持ちよくなり船漕いでいたじい様が目を覚まし、首尾よく修学院で降りることができたとか、できなかったとか。大きく見積もってもその程度。仕事はほんとうに散々で、全部で4つの過ちがあり、悲しくもないのに溢れて、涙が出た。もっと早く帰りたかったからかも。帰ってからもしばらく泣いたが、冷房をつけて洗濯をして大鶴肥満のnoteを読んだら元気が出た。明日から三連休。f:id:shungikuireyo:20220916225645p:image

勢いよく鬱、そして躁へ…

2022年9月14日

今日は社外のイベントに行っている社員も多く会社の中ががらんとしていた。上司も私用で早退し、外はよく晴れ、やることはなく、というのはまあ嘘だけど、こっそりハロプロをイヤホンで聴きながら仕事をして、楽しかった。

少し気になる展示を見つけて、会場が京都からだと少し遠いので、近くに住んでいる人に泊めてもらえるか聞いてみようかなと思ったけれど、ちょっと考えただけで気が進まなくなってしまった。一月先の予定を立てようとすると脳内に紫色のもやがかかり全身の毛穴が開き粘度の高い汗が噴き出て口から勝手にカーペンターズが流れる。ヒーズガナティケトゥライ。また誰かとお出かけするのはこの上なく楽しくて、いつでも友達と遊んでいたいけど、誰と約束するでもなく一人で出かけて、出鱈目に時間を浪費する自分と二重に存在していてほしい。

2022年9月12日

最近知り合った友人に疎遠になった友人の面影を重ねていて、よくないことだと思うが、付き合いが長くなって知っていることが増えていけば、こうした邪念は自然と消えるもので、それはそれでさみしい。

今朝は8時35分に目が覚め、時計を見て一瞬肝が冷えたが、50分にはいつものパソコンの前に座っており、こんなんで本当にいいのかよ、と思った。退社までうっすら上の空で、帰りに寄ったスーパーでも、今晩何を食べるべきか分からず、キムチを買うかどうかで3分弱佇んだりして、買い物にすごく時間がかかった。しかしグズグズしていたおかげで、同じく買い出しに来ていたサークル同期に久々に会えたので、結果オーライ。相変わらず背が高くて声が低く、BGMのボリュームに負けて何言ってるか全然聞こえなかった。

家に帰ってからシソンヌライブonzeの配信チケットを買い、見た。見た。おもしろい。くだらない! 野村くんのコントでは犬についてハッとするようなことを言っているし、江口議員にしても最後のにしてももう少しメッセージ性に踏み込めそうだけど、そこには入っていかなくて、ただもうアホらし!という気分でサッパリ終わる。むしろ残るのは熱弁を奮って汗ばんだ議員の髪の乱れとか、野村くんの落ち着きない足の動きとか、戸棚の開け方とかそういうディテールだ。裏返るファルセットとか。2階席と1階席の見せ方もかっこよかった。一度は生で見てみたい。

2022年9月9日

仕事の帰りに沖縄料理屋に行った。ミミガーのポン酢和えと、ゴーヤととうもろこしの天ぷらを頼んで、オリオンビールを一缶飲んだ。アルバイトだろう店員さんがとても感じのいい人だった。なんとなく水タイプっぽかった気がする。

店を出て歩いているとき、とてもさみしい気持ちがした。今ここでこんな暮らしが続いていることの、道理がよくわからないと思った。いつなくなってもおかしくないものだし、あと数十年続くかもしれない。どうあれ、こうしてずっと一人だ、とも思った。それで平気にやっていけることがさみしいような気がした。地に足のついたさみしさだ。いつの間にこんなところに来てしまったのか。

本を読もうと思って私設図書館に寄った。着く直前にぱらぱらと通り雨が降り出して、私と入れ替わりに退出した女の人が、困ったように空を見上げているのを見た。