2022年9月16日

日記とは、思いついた先から書き出すことでのたうつ心のかたちをトレースする、した気になる。体裁を整えたら案外見られるようになり、満足する。自尊心を少し取り戻す。自分のことを自分の言葉でなんどもなんども語り直すことが大事だ。あるだけ時間を使って、納得いくまで書き換える。面倒くささをいい加減引き受けろ。

もしくは、後から読み返す自分のために。下りのエレベーターの前で立ち尽くしていた小さい子どもの風景や、自転車で八の字書いて走った喜びなど、覚えている、ということを思い出すため。記憶の外在化というと語弊がある。経験したものごとをそのまま再現できるほど、私の言葉は鍛え抜かれていない。トリガー。前に歩いた道をもう一度歩くのと同じだ。それに、記憶と結びつく具体的な日時がはっきり分かることは嬉しい。具体的であればあるほど頼もしい感じがする。

さらには、存在証明。んな大袈裟な!しかし、わざわざ読み返さずとも書き残したテキストをざーっと並べてみるだけで、重たくて仕方のない今をこれまでも生き延びてきたことを、嫌でも納得させられる。特に私は過去の自分を荒っぽく扱ってしまいがちなので。

後はまあ、ボケ防止。それに、仮にも他人の文章をいじくることを生業にしている人間が、ろくに文章も書けないとなると、ちょっとよくない気がする。実際読む方にかなり難が出ていて(理解はできるが味が前より薄いというか、遠い感じ。甘い味を知っているから、かろうじて甘いと判断できる感じ)、読書をやめるわけじゃないけど、怖く、これが感性の衰えなのか学習能力の低下なのか情報過多で入る余地がないのかよくわからん。だからせめて書く。それで読む。自分の書いたものはまだ味がする。

今日は仕事の休憩時間に友達と公園でパンを食べた。牛乳のストローにハエが近寄ってきたりした。去り際「見せたいものがある」と宣言したかと思えば突然石のベンチの上に両手をつき足を地面から離してさながらシャチホコみたいなポーズをとり始めたので私は「怖い!」と叫び、辺りの空気が揺れ、近くを走る叡電の線路が震え、震えが車体に伝い、冷房にあたって気持ちよくなり船漕いでいたじい様が目を覚まし、首尾よく修学院で降りることができたとか、できなかったとか。大きく見積もってもその程度。仕事はほんとうに散々で、全部で4つの過ちがあり、悲しくもないのに溢れて、涙が出た。もっと早く帰りたかったからかも。帰ってからもしばらく泣いたが、冷房をつけて洗濯をして大鶴肥満のnoteを読んだら元気が出た。明日から三連休。f:id:shungikuireyo:20220916225645p:image

勢いよく鬱、そして躁へ…