2023年1月12日

会社終わり、長らく顔を出していなかったコミュニティにふらっと立ち寄った。そこにいる人にことづけるものがあったので。活動を行っている部屋に入っていくと、ご無沙汰の顔たちが「あー!」とか「だー!」とか「お年玉は!?」とか言ってくる。「こないだ話してたミュージカル、行けてんけど良かったわー」こないだ、と言っても2ヶ月も前の話だ。私もちゃんと覚えてた。髪を染めたりパーマをかけたり、ちょっとずつ容貌も変わっているので、ちょっかいをかけてまわる。みんなに会えて嬉しかったけど、長居せずに帰ってきた。寂しくなる前にこのまま帰ろうと思った。

しかしコロナもある、実際。友人たちの話を聞いていると、自分の職場ではコロナへの忌避感がかなり高いまま維持されていると思う。特に気にしている人は毎日各地の感染者数や死者数を読み上げ、「こんなんじゃ迂闊に飲み会もできないね」と隣の社員に呼びかけ、「本当にそうですね」と相槌が返る。事実このところ首都圏では救急医療が再び崩壊しているようなので、危機感としては間違っていない。社内には高齢者や小さい子のいる社員も複数いるので、流行るとちょっと怖い。私も可能な限り気をつけようと思っている。思っているが、それはあくまで私の責任の範囲においてであって、社外での行動制限を受ける筋合いはないはずだと思う。けれど、毎日通う社内の雰囲気が不文律のように身に染み込んで、会社を離れてからも、なんとなく行動選択に他律的な力が加わるのを感じる。大勢の飲み会にいっては「ならない」、不必要な帰省は「すべきでない」。誰も明示的にそうと言ったわけでもないのに、なんとなく声が聞こえてくる。この感じがたまらなく居心地悪い。

また、この3年間(3年か…)散々言われてきたことだが、たとえ親しい間柄においてもコロナ観が全然違う場合があり、難しい。特に最近は、多くの人間がワクチンの接種を複数回済ませ、また自分と同世代の人間はかかってもそう酷くはならないと言われてもいる状況で、何となくだが、「コロナに気をつけないと」と言いづらい感覚を覚えることが多い。「今更?」と思われてしまわないかという不安。

今日顔を出したコミュニティに関して、知人から「何で最近行ってないの?」と問われたらあれやこれや説明するし、実際いろんな理由が重なってはいるのだが、大きなところを占めるのは感染をなるべく避けたいから、感染しているかも、と思ってビクビクしたくないからである。感染リスクがあってでもその場所を必要としている人たちがいて、また維持するためには続ける必要があって、そういう思いで参加している人たちに上記のような話はできない。が、私の行動選択を間違っていると言われる所以もない。が、この行動選択自体、変に空気を読みすぎているというか、毒されている感がある。が、実際かからないにこしたことはなくて……みたいな堂々巡りで出口がない。